社会的な「死」
世論に叩かれる人が多い。
芸能人がスキャンダルを起こし、活動自粛に追い込まれる。
政治家が不適切な発言をして、辞任に追い込まれる。
身近にも、SNSでの発言が炎上し、免職になってしまった人がいる。
そのとき、世論が一斉にその人個人を追い込む。活動自粛に追い込むときはSNSのTLはその人の話ばかりしている。
しかし人の噂も七十五日というが、実際2ヶ月もすればそのように追い込んだことは忘れたかのようにぱったりその話はしなくなるのだ。
本当に忘れているのかもしれない。
その話が本当に問題だと思っているのではなく、誰かが追い込まれていく姿が面白いだけなのではないのか?ただのお祭り騒ぎではないのか?
江戸時代の市中引き回しと何が違うのか?中世ヨーロッパの魔女拷問と何が違うのか?
いや、むしろ社会的な「死」に追い込んだあと、仕事もないのに生きていけというほうが残酷ではないのか。
江戸時代の切腹や打ち首は、本当の意味での「死」だった。
その後の生活は、その人個人に限って言えばあの世でのもので、この世でお金を稼ぐ必要はなかったのだ(もちろん親族は生きていくのに大変になると思うが。)
我々は生活水準を上げていっている、進化していると思っている。
しかし、人間の残酷な面では本当に何も変わらないなと思う。
ブログはじめます。
いまさらだが、ブログをはじめることにした。
twitterやnoteなど、SNSの発信はしてきたのだが、フォロー・フォロワー関係や、最近のコンテクスト軽視の切り取りやいわゆるクソリプ、炎上問題などに辟易し、もう少し自由に意見を留めておきたい場所を求めていたのでようやく開設に至ったところである。
あまり堅苦しくならず、話し言葉と書き言葉の中間ぐらいの感覚で気軽に書いていきたいと思う。
ブログタイトルの「音に聞きつつ…」というのは、古今和歌集・恋一にある在原元方の和歌「音羽山 音に聞きつつ逢坂の関のこなたに年をふるかな」の引用で、思い入れのあるものなので採用した。古今集では恋のうたとして読まれるが、自分の中では少し違う読み取り方をしている。(詳しくは述べないが、追々語っていければいいなと思う)
ヤフーニュースにおけるコメント欄などがその始まりだと思うのだが、最近のtwitterなどにおける有象無象の時事ニュースについてのコメントはあまりにもひどい。
テレビ・新聞で情報収集をするしかなかった時代には、例えば新聞記事には記者や専門家による解説欄があり、一般人にはよくわからないような政治的・経済的なニュースに関して専門的な視点からの解説があった。コンテクストを無視したツッコミはほとんど無視され、専門家が自分の分野に特化して世論を動かしていた。
もちろん一般人が自由に意見できる場所は必要だと思う。YouTubeなどもコメント欄をながめることが動画視聴の一部になっている人は多いだろう。その点でニコニコ動画は革命的だった。
でもやはり、反対意見をするときは、わかろうとする気持ちも大切だと思うのだ。
コンテクストを無視して反論するのはただ八つ当たりしているのと変わらない。
やはりtwitterなどは意見するには字数が少なすぎるのだと思う。
コンパクトにまとめようとして、読み取れる情報が少ないために誤解が生じて炎上してしまう。
twitterの閉鎖を真剣に考えているからこそ、自分の思っていることをそのまま書ける場所が必要だと思っている。
テストも兼ねて、最初の投稿でした。